新河岸川をつたって小江戸「川越」に旅してみる

川越名産・焼き芋屋の宣伝キャッチコピーに「栗(9里)より(4里)うまい13里」がある。これは江戸から川越までの距離(13里)と「川越の芋のうまさ」をひっかけた当時の名文句だ。13里といえば50キロメートル余りで、その道中には上板橋や下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6つの宿場があった。これらを通り過ぎた当時の川越は、江戸の北の守りだったと言われている。

新河岸川

豊富な物資の供給地としても重要な場所だったため、幕府は有力な大名を次々配置した。その1人、松平信綱は、新河岸川を利用した「舟運」(しゅううん)を起して江戸との物流を確立、商人の町としても発達させた立役者だ。これら歴代藩主の施政よろしきを得て、この町の商人たちは城下町、門前町、宿場町の利点を十二分に活かし、川越街道を利用する駄馬輸送や、新河岸川を利用する川舟輸送で、大消費地・江戸と直結させてゆく。この舟の特徴は、米や味噌、材木、炭、野菜をはじめ、ろうそく、髪油、燈油、釘、建具など大量の商品を一度に運べたという点だ。そして川越を夜のうちに舟出すると、もう夜明けごろは江戸の各河岸で荷揚げが出来ていたほど移動も驚異的に早かった。そして、戻りの川舟で江戸へ集まってくる諸国の特産品を川越へ運び、それらに手を加えてまた江戸へ運んだり、ほうぼうの中小消費地へ送り出す…。商人達はこのピストン輸送をフル活用し、前夜川越でこしらえた餅菓子を、次の日には既に浅草や日本橋、深川など水路に近い地域の菓子屋で売っていたというから商魂たくましい。

また、この川越市内は文化水準の高い地域として知られており、優れた寺院もたくさん現存している。有名なものとしては、扇谷上杉持朝(もちとも)が古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城した「川越城」があげられる。

本丸御殿

こちらは県指定文化財にも認定されており、現存する建物は嘉永元年(1848)に建てられたもので、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格をしのばせている。また、天海僧正で有名な「喜多院」にも足を運びたいところ。元和3年(1617)、家康の遺骸を久能山から日光へ運ぶ途中、法要が営まれた場所であり、3代将軍家光が江戸城内・紅葉山から客殿、書院などを境内に移築しているため、「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋も残されているのだ。

仙波東照宮

更にその南側には、「仙波東照宮」があるので、こちらにも立ち寄りたい。日光・久能山とともに三大東照宮といわれている場所であり、重要文化財にも指定されている。

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